何故ケニア人の走りは美しいのか
(https://www.clifbar.com/article/running-in-iten-kenyaより)
今回のテーマはケニア人のランニングフォームの美しさについての解説となりますが、珍しくかなり主観に偏ったものとなっております。
それでもなるべく客観的に説明していきたいと思います。
人のランニングフォームはその人の骨格や筋肉・腱、体の使い方によりそれぞれ異なります。
それを比較するとランニングフォームの美醜はどうしても感じられます。
走るのが速い選手、とりわけ世界トップクラスのランナー達のフォームは速いだけでなく、非常に美しいと私は思います。
フォームがきれいなランナーが全て速いランナーとは限りませんが、速いランナーの中にはフォームがきれいであることが非常に多いです。
そしてケニア人のランナーは世界でもトップクラスの選手が非常に多いです。
マラソンでみても現在世界トップ10人中、6人がケニア人という状況になっています。
トップクラスのケニア人の走りは、くどいようですが本当に美しいフォームです。
それでは何故彼らのフォームが美しいのか説明していきたいと思います。
そもそもの話ですが、何故速いランナーのフォームを美しいと感じるのか、というところから話していきたいと思います。
まず美しさを感じる要素としては速さはあまり重要ではありません。
なので同じ速さでもフォームの綺麗な人とそうでない人は分かれます。
例えば短距離の選手で言うと私は伊藤浩司選手の走りは美しいと感じますが、桐生祥秀選手には美しさを感じません。
同じくらいのベストタイムを持っていても、です。
何が違うのかというと体幹部分の使い方が違っています。
伊藤選手はアフリカ系の選手のフォームに近い、体幹を動的に利用した走り方をしています。
具体的に言うとフォームを正面から見ると頭から骨盤にかけて左右に波打つような動きが見られます。
桐生選手にはこの動きがありません。
頭から骨盤まで真っすぐ固定していて手足の力で走っています。
(興味のある方は下記の動画をそれぞれご参照ください)
つまり体幹を前に進む動き、走る動きに合わせて無理なくスムーズに重心をコントロールできているか、単に力に振り回されないよう固定してしまっているかの違いになってきます。
(体幹の動きについてはこちらのページをご参照ください:”ルディシャの振り子” - ランニング言いたい放題)
大体速さだけを気にするのであれば美しくある必要はありません。
走る必要すらありません。
現代の日本では人間が走るよりも自転車のほうが速いし、自動車や電車や飛行機やロケットなんかは比較にならないほどの速さです。
現実的に考えるのであれば走るよりも圧倒的に便利な移動手段に溢れている現代において、人間の走る速度の価値はほぼありません。
世界一速いランナーであっても、原付バイクに乗った素人より速く走ることはできないのですから。
ただ、それでも美しいというのは人の目を惹きつけます。
より速いものに溢れていても、速いランナーは多くの人々を惹きつけています。
本当にランナーの走りが無価値なのであればプロスポーツとして通用しません。
このことについて私なりにある程度理屈をこねて説明することはできます。
美しいというのは無駄がない、効率的な動作のことでもあります。
人間の体全身を余すことなく的確に使いこなす様を私は美しいと感じます。
つまり 美しい = 効率的 と考えているわけです。
速さ、厳密に言うと速度は時間と距離から求められますが、時間とは人間が「つい」最近意識するようになった単位です。
時間は時計が無いと正確に測れないもので、決して直感的ではありません。
体内時計だとか腹時計とか言いますが、それはかなり不正確なものです。
なので時間を知る前の人類にとって、速さはあいまいで主観的、或いは直接比較することでしか感じられないものでした。
対して効率というのは生活に露骨に現れます。
同じ距離を移動しても効率の悪い人は良い人よりも多くの食料を必要とします。
燃費が悪いことははっきりと体感できるのです。
そしてそれは人類が野生動物に等しかった時は死活問題になります。
その為人類は効率を目指すことを余儀なくされたでしょう。
自分の体を余すことなく無駄のないように使う方法を必死に考えたはずです。
そのため効率的な動きをしている人は、マネするために目を向けるようになり、それが美徳として集団の中でもてはやされるようになった、と私は考えます。
つまり 効率的 = 美徳 = 美しい ということです。
先ほどと同じ構図となりましたが、順序が違います。
要するに美しい動きは効率的なのではなく、効率的だから人は美しいと感じる、ということです。
さて、ようやく本題に移れます。
何故ケニア人の走りは美しいのか、です。
私はケニア人が美しい走り、効率的な走りができるのは置かれている環境に要因があると考えています。
ケニアは現在、日本と比べると決して豊かではなく、少なくない餓死者を出すこともあります。
そしてケニアでランナーになるのはケニアの中でもより貧しい農家の子供です。
そういった子供たちは少ない食事の中で多く働ける・大きく動ける能力を求められます。
また、ケニアはまだまだ交通インフラも貧弱なので、自分の体で移動することが未だに現役です。
しかも、道はデコボコしていて、酸素の少ない高原ということも上乗せされます。
効率的でないと生きていけないのです。
ケニア人のトップランナーはこのような厳しい環境に置かれた、無数の農家出身のランナーから選び出されます。
だからこそ、彼らの動きは美しいのです。
そして、人の体という限られた資源を効率的に運用できる彼らが結果的に現在、世界で最も優れたランナーになっています。
日本は交通インフラについては世界の中でもかなり恵まれており、誰でも手軽に走るよりも断然速い移動が可能になっています。
ただ、そんな環境であっても未だに多くの人は速いランナーに注目しています。
子供はその傾向が特に強いですね。
足が速くなりたいとか、スポーツ選手に憧れる子供は多いと思います。
車や電車の運転手になりたいとか、とか飛行機のパイロットになりたい、という子供も多いでしょうが、スポーツ選手に憧れる子供と数は大きく変わらないはずです。
もし数字的な速さだとか力の強さだけに注目しているのであれば、人より速いもの・強いものはたくさんあります。
にもかかわらず、それでも人単体に憧れるのは、どんなに文明が進化しても人が一種の動物で、そのときの生態が嗜好に色濃く残っていることを示しているのではないでしょうか。
今回はこのあたりでお終いにしたいと思います。
ご精読ありがとうございました。
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